このブログはコラムに身辺雑記を加えたものです。政治・経済の問題については 別ブログで書いてます。(場所は秘密)

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国宝の中で

慈照寺は、東山文化を代表する寺院 銀閣寺という言い方は厳密に いえば誤り

室町幕府8代将軍の足利義政は応仁の乱の最中1473年に将軍職を義尚に譲り、1482年には
浄土寺の旧地に東山山荘(=東山殿)の造営を始め、翌年常御所ができると移り住んだ。
造営当時は錦鏡池を中心とした庭園に常御所、禅室(西指庵)・山上亭(超然亭)
・持仏堂(東求堂)・泉殿(弄清亭)・竹亭(漱鮮亭)・舟舎(夜泊船)・観音殿(銀閣)
・太玄関・龍瀬橋・釣秋亭・会所等、大小12棟の建物が建つ空間であったが、戦火で焼失、
現在は銀閣と東求堂の二棟を残すのみ。あと庭園ね。
 ※基本的には西芳寺の造りを真似ている
 西芳寺=縮遠亭・指東庵・西来堂・向上関・瑠璃殿・合同船・激月橋・湘南亭
 銀閣寺=超然亭・西指庵・東求堂・太玄関・銀閣 ・夜泊船・龍瀬橋・釣秋亭

最後に観音殿(銀閣)の建築に取りかかったが、1489年、義尚が近江で陣没。そのショックも
あってか、翌年1490年1月7日、義政は観音殿の完成を見ないまま逝去。
遺言により、東山山荘は禅寺となり、義政の法名「慈照院」に因み「慈照寺」と名付けられた。
 ※「大文字の送り火」の起源として、義政が義尚の冥福を祈って焚かせたものという説もある
 後述する横川景三の字が元になっているというもの。

「総門」は小さいよね
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総門をくぐると中門まで約50メートルの「銀閣寺垣」があらわれる。中門に入る手前で入山料
500円を払い、中門をくぐると右手に銀閣が姿を現す。正面には本堂(寛永年間の再建)

白砂の銀沙灘と向月台越しの銀閣
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秋の特別公開10月6日~12月2日の期間なので、特別拝観料(本堂・東求堂 1000円)を払い、
本堂の中に入る。もちろん本日の目当ては国宝「慈照寺東求堂同仁斎」
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ありがたいことに、ほとんどの場所が撮影可能。とは言っても襖絵は複製品なんだけどね

慈照寺本堂は仏間を中心にして六室からなり、各室を仕切る襖障子には与謝蕪村・池大雅ら
による襖絵の作品が残されている。
まず本堂中央の襖絵は与謝蕪村による「飲中八仙図」
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「生花」に発展する前のいわゆる「立花」
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次に西の間の襖絵、同じく蕪村による「棕櫚に叭叭鳥図」
カラスに似た鳥は叭叭鳥(中国で花鳥画に描かれることが多い、人語の真似ができる鳥)
植物はソテツではなくシュロ(棕櫚)さて、この襖絵には何羽も空を飛ぶ叭叭鳥が描かれて
いるが、これは一羽の叭叭鳥が飛び立って空を行く様を描いている。つまり、アニメーションの
ように飛ぶ様子をコマ送りで描いているという趣向。
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東の間の襖絵は池大雅による「琴棋書画図」
文人がたしなむべき技芸の琴・棋(囲碁)・書・画を題材にしたモノだけど、右側には なぜか
釣りをする人の後姿が。池大雅は釣りを大変好んだらしく、これは大雅自身の姿を現したもの
であると言われる。いずれも明和年間頃の作と推定

 ※銀閣寺の本堂ふすま絵を複製
銀閣寺は12日、江戸時代中期の文人画家与謝蕪村と池大雅が描いた本堂ふすま絵を、デジタル
技術で複製したことを発表した。複製されたのは蕪村の「山水人物図」「飲中八仙図」「棕櫚に
叭叭鳥図」の計36面と、大雅の「琴棋書画図」12面。7900万円で3年がかりで取り組んだ
銀閣寺によると、本堂のふすま絵は江戸時代に制作されてから修復された記録がなく、色彩の劣化
も表れてきたことから、大日本印刷の関連会社DNPメディアクリエイト関西(大阪市)に委託。
撮影したフィルムをデジタル処理し、インクジェット技術で現状を再現した。
今月仕上がり、本堂にはめ込まれた。原本は銀閣寺の本山・相国寺(上京区)境内にある承天閣
美術館に収蔵する。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007061200132&genre=J1&area=K10

本堂の東 (国宝) 東求堂
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この先が
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「東求堂」は義政の持仏堂で1486年の建立。
「東求堂」と「同仁斎」の名は、禅僧横川景三が挙げた候補の中から義政自らが撰した
「東求堂」は「六祖大師法宝壇経」の「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求め、
西方の人、仏を念じて何れかの国に生まれんことを求めん」の故事がもと。
「西方浄土に生まれんことを求む」ってことやね。西行と同じ。
一方、「同仁斎」の名は韓愈の「聖人、一視同仁」から
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池に面して建てられ、内部は前後左右の四室からなり、
前部左は2間の仏間で、中央には本尊の阿弥陀如来像、脇には足利義政座像(木像)を安置。
写真撮影はダメということで借用
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東求堂の北東が「同仁斎」と呼ばれる義政の書斎
いわゆる「書院造」で今日の和風住宅の原型となる。
柱は角柱、畳を敷き詰め、襖、明障子を用い、主室には床の間、付書院、違い棚などの
座敷飾りを備えた部屋。(この付書院と違い棚は現存最古の座敷飾りの遺構)
茶室の源流ともいわれるが、元来は義政の書斎であるとともに、書籍や文房具・茶道具類
の飾り座敷でもあった。いわゆる「東山御物」の中から、選んでここに飾っていたわけやね

ガイドのおばさんが「日本最初の四畳半」と強調していた。
畳は張り替えたそうだが、その他の部分はほとんど当時のままだということ。
「国宝」の部屋の中で、しばし佇み さまざま思いを馳せる 
写真撮影はダメということで借用
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ところで、この頃部屋を飾る「掛け軸」というモノはまだない そこで
このようにして、
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「景色」をかわりに取り入れたというわけ
2007/12/19 15:31|関西近場紀行 神社仏閣

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